【イギリスの歴史学習】映画「エリザベス」「エリザベス:ゴールデン・エイジ」「ブーリン家の姉妹」を見るための前提知識をまとめました

※ 当サイトではアフィリエイト広告を利用しています。リンクは広告リンクも含みます。

この記事は約22分で読めます。
広告

ヨーロッパにおけるキリスト教の歴史が分かっていないと
映画「エリザベス」シリーズ?(話がつながっているので)が全然、分かりません。
ヨーロッパとキリスト教の歴史について「エリザベス」シリーズ?を見るための前提知識を調べてまとめました。
この3作の時系列は
①「ブーリン家の姉妹」-エリザベス1世の母の話。
②「エリザベス」-エリザベス1世が女王になって覚醒するまで。
③「エリザベス:ゴールデン・エイジ」-「エリザベス」の続きでスペインとのアルマダ海戦まで。
②③①の順番で視聴しました。
知識のない私がYoutubeやChatGptに聞きたりしてまとめたので間違いも多いと思いますので、ご注意ください。
特にChatGpt等の生成AIは、自信満々に間違った答えを言うときがあるので注意してください。

映画「エリザベス」はU-NEXT で無料トライアルで見れます。申し込み方法は、こちら↓

キリスト教の歴史については、こちら↓

広告

エリザベス1世の時代(16世紀後半)のイングランドとスコットランドは独立した王国

エリザベス1世の時代(16世紀後半)のイングランドとスコットランドは独立した王国だった。
映画に出てくるスコットランドの中心人物がメアリー・オブ・ギーズ。

映画「エリザベス」では、メアリー・オブ・ギーズ(Mary of Guise)が重要な脇役として登場します。彼女はスコットランドの摂政であり、フランスの有力貴族ギーズ家出身の女性です。彼女の役割と背景について詳しく説明します。

メアリー・オブ・ギーズの背景

メアリー・オブ・ギーズはフランス貴族の一員で、スコットランド王ジェームズ5世と結婚し、スコットランドの女王となりました。彼女はメアリー・スチュアート(後のスコットランド女王メアリー1世)の母親でもあります。

ジェームズ5世が亡くなった後、彼女は娘メアリー・スチュアートの幼少期にスコットランドの摂政として統治を行いました。メアリー・オブ・ギーズはカトリック信仰を守り続け、フランスとスコットランドの同盟を強化しようとしました。彼女の目的は、イングランドと対抗するためにスコットランドとフランスの関係を深めることでした。

映画での役割

映画「エリザベス」では、メアリー・オブ・ギーズがスコットランドとフランスのカトリック勢力の代表者として描かれています。彼女はエリザベス1世のプロテスタント政策に反対し、フランスと協力してイングランドを再びカトリックの影響下に置こうとします。彼女はスコットランドとイングランドの国境付近で軍事的圧力をかけ、エリザベスの統治を脅かす存在として描かれています。

映画では、メアリー・オブ・ギーズが最終的にエリザベスの命令によって暗殺されるシーンが描かれますが、これは映画の脚色です。実際には、メアリー・オブ・ギーズは1560年に自然死しています。

映画での意図

メアリー・オブ・ギーズの登場は、映画においてエリザベスが直面した宗教的・政治的な挑戦を強調するために描かれています。彼女は、エリザベスが直面するカトリック勢力の象徴として、ストーリーに緊張感を与える役割を果たしています。

映画「エリザベス」は、歴史的事実に基づきつつも、ドラマチックな脚色が施されているため、メアリー・オブ・ギーズの描かれ方も一部フィクションが加わっています。それでも彼女の役割は、エリザベスの統治の困難さと、宗教的対立がいかに激しかったかを視覚的に伝えるための重要な要素となっています。

当時、王位はメアリー・オブ・ギーズの娘メアリー・スチュアートだったが
母が、摂政としてスコットランドを統治していた。フランスの有力貴族ギーズ家出身の女性なのでフランスとのパイプがあった、またカトリック信仰を守り続けた。
目次へ

映画「エリザベス」(1998)の前提知識解説

上で説明した内容を踏まえて映画「エリザベス」の前提知識を解説します。

下図は映画「エリザベス」に関係するイングランド王位の系譜です。

①ヘンリー8世 (1509-1547)   ()は王位在位期間 赤:映画「エリザベス」に登場
                    |
   +----------------+----------------+--------他に3人妻がいた
   |                |                |                
キャサリン・    アン・         ジェーン・      
オブ・アラゴン   ブーリン        シーモア        
   |                |                |
メアリー1世    エリザベス1世    エドワード6世
③(1553-1558)    ④(1558-1603)     ②(1547-1553)

ヘンリー8世には全部で6人女性の相手がいるが、婚姻関係はどうなっているか気になってChatGptに聞いた。妾ではなく、短期間で死別(処刑も)、離婚を繰り返してた。

ヘンリー8世は、キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚を無効にした後、6人の妻と結婚しています。それぞれの婚姻関係とその結末は以下の通りです。

1. キャサリン・オブ・アラゴン (Catherine of Aragon)

  • 結婚: 1509年に結婚。キャサリンはヘンリー8世の兄アーサーの未亡人で、ヘンリー8世の最初の妻。
  • 無効宣告: 1533年、ヘンリーはキャサリンとの結婚を無効にし、彼女は事実上の離婚となりました。彼女との間には娘メアリー1世が生まれました。

2. アン・ブーリン (Anne Boleyn)

  • 結婚: 1533年に再婚。アンはヘンリー8世がキャサリンとの結婚を無効にした理由でもあります。
  • 結末: 1536年、アンはヘンリー8世の命令で反逆罪として処刑されました。彼女との間には娘エリザベス1世が生まれました。

3. ジェーン・シーモア (Jane Seymour)

  • 結婚: 1536年に結婚。アン・ブーリンの処刑後すぐにジェーンと結婚しました。
  • 結末: 1537年、ジェーンはエドワード6世を出産しましたが、出産の合併症でその後間もなく亡くなりました。ヘンリー8世は彼女を最愛の妻と考えていたと言われています。

4. アン・オブ・クレーヴズ (Anne of Cleves)

  • 結婚: 1540年に結婚。これは政治的な同盟を意図していた結婚でしたが、ヘンリー8世は彼女に魅力を感じず、結婚を解消することを求めました。
  • 結末: 同年のうちに婚姻は無効とされ、アンは「王の姉妹」として扱われました。彼女はイングランドに留まり、裕福な生活を送りました。

5. キャサリン・ハワード (Catherine Howard)

  • 結婚: 1540年に結婚。アン・オブ・クレーヴズとの婚姻解消後、ヘンリー8世はキャサリンと結婚しました。
  • 結末: 1542年、キャサリンは姦通の罪で処刑されました。彼女はアン・ブーリンの従姉妹でもあります。

6. キャサリン・パー (Catherine Parr)

  • 結婚: 1543年に結婚。キャサリン・パーはヘンリー8世の最後の妻で、彼の晩年を支えました。
  • 結末: ヘンリー8世は1547年に亡くなり、キャサリン・パーはその後再婚しましたが、1548年に出産後の合併症で亡くなりました。

まとめ

ヘンリー8世は6回結婚し、これらの婚姻関係は彼の宗教政策や政治的な野心に大きな影響を与えました。特に最初の2つの結婚がイングランドの宗教改革の引き金となり、後の結婚は政治的、個人的な要因が大きく関与しています。

ヘンリー8世はキャサリン・オブ・アラゴンと離婚したかったが、教皇が認めてくれなかったのでイングランドはカトリックからプロテスタントへ。これだけではないが一因になった。

ローマ教皇クレメンス7世がヘンリー8世の離婚を認めなかった理由は、宗教的・政治的な要因が複雑に絡み合っています。

1. 宗教的理由

  • 結婚の聖性: カトリック教会は結婚を神聖な契約と見なし、その解消は基本的に認められていません。ヘンリー8世が求めたのは、キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚の無効を宣言することでしたが、これは結婚の神聖性を軽視する行為と見なされ、教会の教えに反するものでした。

2. 政治的理由

  • キャサリン・オブ・アラゴンの出自: キャサリンはスペインの強力な王室であるアラゴン家の出身で、神聖ローマ皇帝カール5世の叔母にあたります。当時、スペインは非常に強大な勢力を持っており、カール5世の影響力も絶大でした。クレメンス7世は、キャサリンの離婚を認めることがカール5世を激怒させ、教皇庁と神聖ローマ帝国の関係を悪化させるリスクがあると考えました。
  • 教皇庁の弱体化: クレメンス7世は教皇として非常に難しい立場にありました。1527年にはローマ劫略(Sacco di Roma)が起こり、カール5世の軍隊がローマを占領しました。この出来事で教皇庁は大きなダメージを受け、カール5世に対抗する力がほとんど残っていませんでした。したがって、教皇はカール5世との対立を避けたいと考え、ヘンリー8世の要請を断る決定を下しました。

3. 教会の権威を守るため

  • 先例と影響: 教皇がヘンリー8世の結婚無効を認めれば、他の君主や貴族も同様の要求をする可能性がありました。これにより、教皇庁の権威が弱まる恐れがありました。カトリック教会は結婚の無効宣言を非常に慎重に扱っていたため、簡単に認めるわけにはいかなかったのです。

結果

これらの宗教的・政治的な理由から、クレメンス7世はヘンリー8世の離婚を認めることができませんでした。この決定が最終的にヘンリー8世をローマ教会から離脱させ、イングランド国教会を設立するきっかけとなりました。

この辺の話は後述の映画「ブーリン家の姉妹」で描かれている。

エリザベス1世は母の件が原因で「エリザベス」「エリザベス:ゴールデン・エイジ」の中で
カトリック側の登場人物に「妾腹の子」とよく呼ばれていた。

ヘンリー8世の次のエドワード6世でプロテスタント化が進む。
しかし続いて即位したメアリー1世は母キャサリンによって敬虔なカトリックに育てられていて
カトリック教会との関係を完全に復活させました。
メアリーはプロテスタントを迫害し、女性や子供を含む約300人を処刑したため、「ブラッディ・メアリー」 (Bloody Mary) と呼ばれた。

ヘンリー8世の離婚問題からエリザベス1世が女王になるまでの間、イングランドでは宗教的な混乱が続きました。この期間にカトリックとプロテスタントの状況がどのように変化したかを、年号付きで解説します。

1. ヘンリー8世の離婚問題と宗教改革 (1527年 – 1547年)

  • 1527年: ヘンリー8世はキャサリン・オブ・アラゴンとの間に男子の後継者が生まれないことに不安を感じ、キャサリンとの離婚を求めました。しかし、ローマ教皇クレメンス7世がこれを認めなかったため、離婚問題が発生しました。
  • 1533年: ヘンリー8世は教皇の許可を得ることなく、キャサリンとの結婚を無効にし、アン・ブーリンと再婚しました。この結果、教皇はヘンリー8世を破門しました。
  • 1534年: ヘンリー8世はイングランド国教会を設立し、自らをその最高首長とすることを宣言しました(首長法)。これにより、イングランドはカトリック教会から独立し、プロテスタント化が進みました。
  • 1536年: 修道院解散令を発布し、イングランド全土の修道院を解散させ、その財産を没収しました。これはイングランドの宗教的財産が世俗化される一方で、カトリック信仰が抑圧される時代の始まりです。
  • 1547年: ヘンリー8世が亡くなり、息子のエドワード6世が王位を継承しました。

2. エドワード6世のプロテスタント改革 (1547年 – 1553年)

  • 1547年: エドワード6世(ヘンリー8世とジェーン・シーモアの息子)が王位を継承しました。彼の治世では、プロテスタント改革がさらに進展しました。
  • 1549年: 英語による「共通祈祷書」が導入され、イングランド教会の礼拝形式がプロテスタント化されました。この動きはカトリック信徒にとって大きな衝撃でした。
  • 1552年: 第二版の「共通祈祷書」が発布され、カトリック的要素がさらに排除されました。これにより、イングランド教会は完全にプロテスタントとしての性格を強めました。
  • 1553年: エドワード6世が若くして亡くなり、カトリック信仰を守るためにジェーン・グレイが短期間女王に据えられましたが、即座に廃され、メアリー1世が即位しました。

3. メアリー1世のカトリック復興 (1553年 – 1558年)

  • 1553年: メアリー1世(ヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンの娘)が女王に即位しました。彼女は熱心なカトリック教徒であり、イングランドをカトリック信仰に戻そうとしました。
  • 1554年: メアリー1世はスペイン王フェリペ2世と結婚し、カトリック復興政策を進めました。プロテスタント指導者の多くが処刑され、メアリー1世は「血まみれのメアリー(ブラッディ・メアリー)」と呼ばれるようになりました。
  • 1555年: メアリー1世はカトリック教会との関係を完全に復活させ、ローマ教皇の権威を再び認めました。プロテスタントの指導者たちは迫害され、多くが火刑に処されました。
  • 1558年: メアリー1世が死去し、妹のエリザベス1世が即位しました。エリザベスはプロテスタント信仰を支持していました。

4. エリザベス1世の宗教統一 (1558年 – )

  • 1558年: エリザベス1世(ヘンリー8世とアン・ブーリンの娘)が女王に即位しました。彼女はプロテスタント信仰を支持しつつも、カトリックとプロテスタントの対立を調整する政策をとりました。
  • 1559年: 統一法(Act of Uniformity)と至高統治法(Act of Supremacy)を発布し、イングランド国教会を再び国の宗教として確立しました。これにより、エリザベス1世がイングランド教会の最高首長となり、カトリックの影響を排除しました。
  • 1563年: 「三十九箇条信仰告白(Thirty-Nine Articles)」が制定され、イングランド教会の教義が確立されました。これにより、プロテスタントとしてのイングランド国教会が確立されました。

まとめ

ヘンリー8世の離婚問題からエリザベス1世の即位までの間、イングランドは宗教的に大きな変動を経験しました。ヘンリー8世によるプロテスタントへの転向、エドワード6世の改革、メアリー1世のカトリック復興、そしてエリザベス1世による宗教統一が連続的に起こり、最終的にエリザベス1世の下でイングランドはプロテスタント国家としての道を歩むことになりました。

ここからの話が映画「エリザベス」です。
なのでプロテスタント迫害のシーンから始まります。
続いて
ワイアットの反乱(後述)がカトリックの国内貴族ノーフォーク卿により失敗したことが女王メアリーに報告されます。
メアリーの夫はフェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)です。

映画「エリザベス」の冒頭に登場するワイアットの話は、歴史的な背景に基づいており、エリザベス1世が即位する前の時代に起こった出来事に関連しています。このシーンでは、エリザベスの命運に深く関わる出来事が描かれています。

1. ワイアットの反乱(Wyatt’s Rebellion)

  • 背景: 1553年にエリザベス1世の異母姉メアリー1世が即位し、カトリック信仰を復興させました。しかし、彼女のカトリック政策やスペイン王フェリペ2世との結婚計画は、イングランド国内のプロテスタント勢力や、カトリックに反感を抱く人々の間で強い不満を引き起こしました。
  • 反乱の原因: 1554年、トマス・ワイアット(Thomas Wyatt)を中心とする一部の貴族たちは、メアリー1世の治世に対抗し、スペインとの結婚を阻止しようとしました。彼らはエリザベスをプロテスタントの希望の象徴と見なし、彼女を支援することでメアリー1世を退位させようと計画しました。
  • 反乱の経過: ワイアットの反乱はロンドンを占拠する計画でしたが、失敗に終わりました。反乱の首謀者たちは捕らえられ、多くが処刑されました。

2. エリザベス1世の疑惑

  • 反乱とエリザベスの関係: ワイアットの反乱後、エリザベス1世もこの反乱に関与していたのではないかという疑惑が持ち上がり、彼女はロンドン塔に投獄されました。エリザベスは反乱への関与を否定しましたが、彼女の身の安全は非常に危うい状況にありました。
  • 釈放: エリザベスの命は当時のメアリー1世の側近たちによって守られ、最終的には無実として釈放されました。しかし、この事件はエリザベスにとって、カトリック支配下での自らの危険な立場を強く印象付けるものとなりました。

3. 映画における意味

映画「エリザベス」の冒頭でこのエピソードが描かれるのは、エリザベス1世の即位前の緊張感と、彼女が直面した危険な政治状況を示すためです。この反乱を通じて、エリザベスは慎重さと鋭い政治感覚を身につけ、自らの生存と後の治世のための準備を整えていく過程が描かれています。

ワイアットの反乱は、エリザベスが後に女王として即位した際に直面した数々の挑戦や、彼女が自らの地位を確立するためにどれほどの苦難を乗り越えたかを理解する上で重要な出来事です。

エリザベス1世はワイアットの反乱に加担した疑いで幽閉されます。

「母を王妃の座から追いやった淫婦の娘としてメアリーはエリザベスのことを終生憎み続けており、崩御の前日になってしぶしぶ彼女を自身の後継者に指名するほどだった。」(wikiより)

その後メアリー1世が亡くなってエリザベス1世が王位につき
カトリック、スコットランド、フランス、スペインなど敵対勢力を排除するまでの話になります。

主な登場人物
ロバート・ダドリーーエリザベス1世の親しい友人であり、恋愛関係。スペイン大使とよく話してる。
ノーフォーク卿-カトリックの国内貴族。
フランシス・ウォルシンガム-プロテスタントであるためメアリーのときは国外にいた。女王のボディーガードというか007。
ウィリアム・セシル-エリザベス1世の重要な顧問。エリザベスに結婚をすすめる。悪い人ではない。
メアリー・オブ・ギーズ-スコットランドの摂政、メアリー・スチュアート(スコットランド女王)の母(前述)。
アンジュー公ーフランスの皇太子、メアリー・オブ・ギーズと親戚。エリザベスに求婚。
目次へ

映画「エリザベス:ゴールデン・エイジ」(2007)の前提知識解説

映画「エリザベス」の続きの話です。

前提知識として必要なのは2つ、
スペインがカトリック国であること。
もう一つは、 メアリー・スチュアートの人物背景と幽閉されている理由です。

下図は映画「エリザベス:ゴールデン・エイジ」に関係する系譜です。
(イ)イングランド王位継承者(ス)スコットランド王位継承者

        ヘンリー7世(イ)
           |   
  ┌ ---------------+----------------+--
    |                   |  
 ヘンリー8世(イ)             マーガレット・チューダー
  ├--------------┐           |
 メアリー1世(イ)エリザベス1世(イ) ジェームズ5世(ス)
                                 |
                                 メアリー・スチュアート(ス)

敵スペインの王フェリペ2世はメアリー1世と結婚していた。
映画「エリザベス」でメアリーの横にいた。
フェリペ2世とメアリー1世の経緯(Wikiより)
1554年、イングランド女王 メアリー1世(1516年2月18日 – 1558年11月17日)と結婚した。
1556年にフェリペは即位のためスペインに帰国、1年半後に3ヶ月ほどロンドンを再訪したのみで別居状態となった。すでに高齢出産の年齢に達していたうえメアリー1世は婦人科系の病に冒されていた模様で、子をもうけないまま1558年に死去した。
1588年: アルマダ海戦

メアリー・スチュワートについて
前作「エリザベス」でノーフォークとメアリー・スチュワートの結婚話も出ていてストリーの鍵を握っていました。
メアリー・スチュアートは、1542年わずか生後6日でスコットランドの王位を継承した。
1558-1561はアンリ2世の王太子フランソワ(1560病死)と結婚してフランスに住んでいた。
1561年にスコットランドに戻り、プロテスタントの貴族たちと宗教的に対立しながらも統治を続けました。
1567年にスコットランドの王位を追われ、イングランドに逃れてエリザベス1世に保護を求めました。しかし、エリザベスは彼女を脅威と感じ、彼女を軟禁します。

メアリー・スチュワート(スコットランド女王メアリー)がイングランドに幽閉された経緯は、16世紀のイギリスとスコットランドの複雑な宗教的・政治的な状況に深く関係しています。

1. メアリーのスコットランドでの統治

メアリー・スチュワートは1542年にスコットランド女王として即位しましたが、フランスの宮廷で育ち、カトリック信仰を持っていました。1561年にスコットランドに戻り、プロテスタントの貴族たちと宗教的に対立しながらも統治を続けました。

2. メアリーの私生活と政治問題

メアリーは1565年にダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚しましたが、この結婚は問題を引き起こしました。ダーンリーの性格と行動に不満を抱くメアリーは、彼の排除を図る者たちと関わるようになり、1567年にダーンリーが暗殺されます。この事件にはメアリーが関与しているのではないかと疑われ、メアリーの評判は大きく損なわれました。

その後、メアリーはボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンと結婚しましたが、この結婚もスコットランドの貴族たちの反感を買い、彼女は捕らえられ、スコットランドの王位を幼い息子ジェームズ6世に譲ることを強いられました。

3. イングランドへの逃亡と幽閉

1568年、メアリーはスコットランドを脱出し、イングランドに逃亡しました。彼女は親戚であるイングランド女王エリザベス1世に助けを求めましたが、メアリーがカトリックの強い支持を受けていたため、エリザベスにとっては潜在的な脅威と見なされました。エリザベスの治世に対する陰謀にメアリーが関与しているとの疑いもあったため、メアリーはイングランドで捕らえられ、幽閉されることになりました。

4. 最終的な処刑

メアリーは約19年間、イングランド各地で幽閉されましたが、1586年にバビントン陰謀事件(エリザベス1世を暗殺し、メアリーをイングランドの女王に据えようとする計画)が発覚し、メアリーがこれに関与していたとして裁判にかけられました。1587年2月8日、メアリーは反逆罪で有罪判決を受け、処刑されました。

このように、メアリー・スチュワートの幽閉は、宗教的対立、王位継承問題、そしてエリザベス1世に対する脅威としての存在が重なり合って生じたものです。

映画の後日談として最終的に、エリザベス1世が子供を持たなかったため、彼女の死後にスコットランド王ジェームズ6世(メアリ-・スチュワートの息子)がイングランド王ジェームズ1世として即位し、両国は同じ君主の下で統一されました。これにより、両国間の緊張は徐々に緩和され、イングランドとスコットランドは1707年の合同法により正式に一つの王国となりました。

エリザベス1世とメアリスチュワートは親戚ですが
現在のイギリス王室と血筋はつなっがているようです。
参考https://saku-saku.link/%e9%9b%91%e5%ad%a6/%e3%82%a4%e3%82%ae%e3%83%aa%e3%82%b9%e7%8e%8b%e5%ae%a4%e6%ad%b4%e5%8f%b2%e3%81%84%e3%81%a4%e3%81%8b%e3%82%89#toc2

目次へ

映画「ブーリン家の姉妹」(2008)の前提知識解説

ヘンリー8世とアン・ブーリン(エリザベス1世の母)の話は「ブーリン家の姉妹」(2008年)がありU-NEXT でも見れます。
映画「エリザベス」の前提知識解説が前提知識になります。
キャサリンはヘンリー8世の兄アーサーの未亡人ていうことは知っておいた方がいいかも。
結婚から約半年後の1502年、アーサーはわずか15歳で病死。
キャサリン前夫のことがセリフで出てきて、かなりキーになるのでChatGptに聞いた。

キャサリン・オブ・アラゴン(カトリーヌ)は、イングランド王ヘンリー8世の兄アーサー・テューダーの未亡人でした。二人の関係は、後にイングランドの宗教改革に繋がる重要な問題となりました。

1. 結婚の背景

キャサリン・オブ・アラゴンはスペインの王女で、強力な同盟を築くためにイングランドの王位継承者アーサー・テューダーと結婚しました。彼らは1501年11月に結婚し、ルドロー城で新婚生活を始めました。

2. アーサーの死

結婚から約半年後の1502年、アーサーはわずか15歳で病死しました。これにより、キャサリンは未亡人となりました。

3. 性的関係の有無

キャサリンとアーサーの結婚が実際に「成婚」したかどうかは、後に大きな問題となります。アーサーの死後、キャサリンは再びイングランド王家と結婚することが検討されましたが、相手はアーサーの弟であるヘンリー(後のヘンリー8世)でした。カトリック教会の教えでは、兄弟の未亡人との結婚は近親相姦と見なされ禁じられていました。しかし、キャサリンはアーサーとの結婚が「未完成」であり、性的関係がなかったと主張しました。この主張に基づき、教皇は特別な免除を与え、キャサリンとヘンリー8世の結婚が許可されました。

4. ヘンリー8世との結婚とその後の問題

キャサリンとヘンリー8世は1509年に結婚しましたが、結婚生活は波乱に満ちていました。特に、男子の後継者が生まれなかったことが大きな問題となり、ヘンリーは結婚を無効にしようとしました。ヘンリーは、キャサリンが実際にアーサーと結婚を成就していたため、彼女との結婚が神に反するものだと主張し始めました。

5. 映画「ブーリン家の姉妹」における描写

映画「ブーリン家の姉妹」では、キャサリンがアーサーとの性的関係がなかったことを強調する場面があります。この主張は、彼女の立場を守るために重要でした。もし彼女がアーサーと関係を持っていたことが証明されていれば、彼女とヘンリー8世の結婚は無効とされ、彼女の娘であるメアリー1世の正統性も危うくなる可能性がありました。

歴史家の間でも、キャサリンとアーサーが実際に性的関係を持っていたかどうかについては議論がありますが、キャサリン自身は一貫して関係がなかったと主張していました。

救いようのない話だが、3作の中では
物語の風呂敷を広げすぎず焦点が絞れていて1番よくできている映画です。
「エリザベス」「エリザベス:ゴールデン・エイジ」のカトリック系の登場人物が
エリザベス1世親子がきらいな理由が分かる。
特に、メアリー1世 がエリザベス1世を嫌いなのも納得。

「エリザベス」「エリザベス:ゴールデン・エイジ」だけ見た人は
それぞれの母親のキャラを
メアリー1世の母= 悪妻、エリザベス1世=良妻のイメージだと思います。私がそうだった。
この映画を見るとイメージが逆転します。

でもエリザベス1世と母アン・ブーリンは似てるかな。強さというか突進力が常人ではない。
目次へ

参考Youtube

https://youtu.be/7t6HhmyPXHU?si=S4HtSVmPCuuGdNBE
https://youtu.be/NhLIT_gujm0
https://youtu.be/jvwKdWvnJqE?si=1McM0FncOhhvfdF8
https://youtu.be/Iyo2bNMh6DM?si=aaNsK-18gGTBnLch

wikiの映画「エリザベス」の実話との相違点も見ておくといいかも。
目次へ
イチゲをOFUSEで応援する(御質問でもOKです)Vプリカでのお支払いがおすすめです。

タイトルとURLをコピーしました